トップ

成果物

中東和平



中東イスラム世界 社会統合研究会 中東和平

ご講演DVD紹介
松長昭先生「オスマン帝国支配下のエルサレム」

平成30年(2018) 8月5日
執筆:村瀬一志



 中東・中央アジア研究で高名な学者である松長昭先生によるご講演を記録したDVDをご紹介申し上げます。これは2018年6月30日、けやきの森の季楽堂で行われた「第2回 ホセインさんのパレスチナ料理の会〜テーマ:中東の共存と平和を考える」でのご講演を記録したものです。概略をご紹介いたします。
これは後に県、及び県長としての性格を持つようになるが、後にこれらベイレルベイリク(州)、サンジャク(県)はオスマン帝国の直轄地を形成することになった。なお、ベイレルベイリクは後にエヤレト(エヤレットという表記もある)、ヴィラエットと呼称が変化する。

緩い統治(オスマン帝国)
  • エルサレムは商業ルートから外れた場所
  • 軍団と軍司令部(ダマスカス)
  • サンジャク(旗)とエルサレム知事
  • ミレット制
  • 領事と領事保護民(カピチュレーション)
  • オスマン官僚と地元有力者の協力関係

オスマン帝国の統治システム
 属国(クリミア・ハン国(クリム汗国)、ワラキア(エフラク)君侯国、モルダヴィア(ボーダン)君侯国、トランシルヴァニア(エルデル)君侯国、ドゥブロブニク(ラグーザ)共和国、



エルサレム人口史
 エルサレムは19世紀後半よりユダヤ人の方がアラブ人よりも常に人口で上回っており、1949年にエルサレムが東西に分割されるとその傾向はさらに強まった。東エルサレムは経済の伸び悩んだヨルダン領にあった上、首都はアンマンに置かれてエルサレムの開発は進められず、人口は停滞した。
一方、イスラエル側の西エルサレムは独立後すぐに首都が移され、イスラエルの政治の中心として大規模な開発が進められたため、人口が急増した。1967年に東エルサレムがイスラエルに占領されると多くのアラブ人がエルサレムから流出し、その差はさらに開いた。1967年にはユダヤ人はエルサレムの人口の74.6%を占め、アラブ人は25.4%に過ぎなかった。 イスラエルは占領後旧ヨルダン領にあった28の地方自治体を
モンテネグロ公国(公または主教の支配)、ヒジャーズなどは君主の任免権を帝国中央が掌握しているのみで、原則として自治に委ねられていた。

統治システム
 独立採算州(エジプトなど)は州知事(総督)など要職が中央から派遣される他は、現地の有力者に政治が任せられ、州行政の余剰金を中央政府に上納するだけであった。
ベイレルベイ(大軍管区長官)とベイレルベイリク(大軍管区)の下にはサンジャク(小軍管区)、サンジャク・ベイ(小軍管区長)が置かれた。

エルサレムに統合したが、その地区にはユダヤ人の大規模入植地が建設され、多くのユダヤ人が流入した。 しかしエルサレムのアラブ人の出生率は高く、ユダヤ人入植地の大量建設をもってしても人口比率を増やすことはできなかった。
2007年には、エルサレムのアラブ人の割合は34%にまで伸び、ユダヤ人の比率は66%にまで落ちた。このままの人口推移が続けば、2035年にはエルサレムの人口比率はユダヤ人とアラブ人がほぼ同数になると考えられている。

その他の内容は....

ミレット制
ミッレト制とイスラム教以外への宗教政策
カピチュレーション
ほか。


実費でお分けしますのでご希望の方はこちらへご連絡ください。


(以上)




















お問い合わせ   (C)中東イスラム世界 社会統合研究会